水脈の会会報 「水脈 mio」掲載

宛名のない手紙(15)

送り火

現代建築が自由と自我の尊厳のもとに、新しい建築を開拓しようと努めているために一回限りの実験に終わってしまっているのだ。…
毎年、八月十六日が来れば私は京都の友人の家に出向きます。そしてたくさんの友だちとともに京都五山の“送り火”を眺めながらゆく夏を惜しみます。
今年もいつものように、五山の“送り火”を楽しむことが出来たことに感謝しながら、短い時を過ごしました。“送り火”の炎を眺めながら私の頭の中でノートの早めくりのように色々な故人の思い出がパラパラと現れては消えてゆきました。誰であったか思い出せないぐらいあっという間の出来事でした。私はその日のうちに大阪に戻りました。
次の日の朝、早く起きて散歩に出かけました。木槿、芙蓉、立葵の花が家々の庭先で咲き乱れていました。そうそう、百日紅の花も夾竹桃の花も咲いていました。そんな町屋の路地を通り過ぎて大阪城の西外堀にいたりました。大手門を正面にして左には多聞櫓、千貫櫓、右には二の丸の立派な石組と、その上のわずかばかりの漆喰の白壁、そして瓦、その向こうから朝日が輝いていました。
ゆっくりと土橋を渡りながら大手門をくぐると、その左側に多聞櫓の麗姿が現れます。西の丸を通り過ぎ、二の丸を経て桜門をくぐれば本丸です。石組、漆喰の白壁、瓦、そして長い伝統は、昨夜私の頭の中で何か言いたげに現れては消えてゆくある人物の姿をここに来てはっきりと浮かび上がらせました。

岩本博行という建築家です。その人物が岩本博行だとはっきり解った時、私の目は馬場町に建つNHKの新社屋と大阪市歴史博物館の複合建物に釘付けになっていました。どなたの設計かは知りません。設計者には申し訳ありませんが、なんと醜い建物でしょう。大阪城の刻印石広場に捨てられた石たちにも及ばぬ佇まいです。
このような建物が、教養ある世の中の指導的立場にある人物の考えによって、良い建物として理解され実現されているのでしょう。あぁ、どうしてこんなことになったのでしょう。現代の私たちの街はこのような醜い建築で埋め尽くされてゆきます。
今から四十年も前に岩本博行は「私の伝統論」という小論の中で現代の日本の都市が陥っているこの醜さの原因を話しています。『現代建築が自由と自我の尊厳のもとに、新しい建築を開拓しようと努めているために一回限りの実験に終わってしまっているのだ。一方民家は、繰り返し実物で修正し失敗を重ねて造り上げているため、欠点を改め美を重ねた民族の知恵の集積である。この民族の知恵に匹敵するほどの作品を生む建築家はいない。このような民家の集落の美しさは誰でも知っているはずだ。それに対して、日本の近代都市は分裂と狂騒に満ちた雑糅の都市でしかない。歌舞伎は踏襲によって芸を磨くのであるが、この芸の真を見極めようとして踏襲をすれば必ずその芸の原型を発見するに至る。この原型にこそ創造力というものが潜んでいるのだ。
そしてこれが伝統というものだ。そして日本の近代建築は様式建築を否定する事情にあったため、伝統の美の原型までも放棄してしまったのだ。今になって探り当てようとしても訓練と精神の伴わない目には、もうその原型はみえてこない』氏は現代建築の陥った事情をものの見事に言い当てていると思います。

四十年前に現代都市のこの混乱に対処せねばならぬと警鐘を鳴らしたが、社会の進行方向は止まることなく、この美しさのない都市へと猛進して今日に至っているのです。岩本博行とは、皇居の桜田壕に面した国立劇場の設計者です。完成した時は、評論家たちには鷹の伝統論者として厳しく批判を受けました。その是非はともかく、当時私にとって岩本博行は、唯一人の建築における師匠でありました。竹中工務店という企業社会の中におりましたが、時にふれ、折にふれ、私に美しさとはどんなことかを説いた人でありました。
ある日の昼下がりに、堂島の竹葉亭の二階の座敷に呼び出されました。師は、にごり酒を嗜んでおられました。南の縁側の向こうには庭の前栽を通して、いわゆる大阪のビルの街並が見えかくれしています。『ひとつもええことあらへんやろ』『こっちのほう見てみい。何にもないけど美しいやろ…』北側の縁側のすぐ向こうに真っ白の漆喰の蔵の壁と瓦の屋根と、その上に空があるだけでした。玄関に北大路魯山人の扁額のかかったこの竹葉亭も今はもうありません。
何を踏襲するのか、そして踏襲からどのようにして創造力を導き出すのか、そして何を伝承するのか、そしてどのようにして美に近づくのか。たくさんの問題を残して一九九一年の秋、師はこの世を去りました。