水脈の会会報 「水脈 mio」掲載
今、建築界に時代を開く水脈は流れているか
この国では今年の春、桜の花が例年になく早く咲き、慌ただしく散って逝きました。あっという間の出来事でした。京都の祇園に白川という川が流れています。その小さな川にたつみ橋という橋が架かっています。桜のころになると、その川縁の枝垂れ桜は夜間に照明があてられ、とても静かな色香が漂っているのです。ある日の夕刻、私はたつみ橋を渡ろうとして、大変驚きました。橋の上から川縁までカメラをぶら下げたたくさんの観光客で溢れんばかりでありました。川縁の桜やたつみ橋を背景にして写真を撮っているのです。現在、京都は観光都市ではありますが、なぜこんなにもたくさんの人がこんな所に集まるのでしょうか。もっと美しい桜の風景がこの国中に溢れているというのに…。私は何かあればすぐに人が集まり群集となっていくこの状況が好きではありません。このような状況はこの国の建築の世界にもあてはまっているような気がします。建築界は徒党を組んで…イズム、ポスト…イズムと建築の主義主張を声高に展開しますが、パッと花咲いては、パッと散ります。桜は毎年同じ花が咲いては散っていくのですが、建築界は毎年異なった花が咲いては散るのですから驚きです。特に最近の建築には感じるものがますます少なくなってきています。社会全体が建築を創るという業務を単なる物品生産くらいにしか考えない風潮があります。少し郊外にでてみると、今日でも、宅地開発がどんどん進められ分譲地がたくさんできています。そしてしばらくしてその辺りを再び訪れると、驚くなかれ、各々の分譲地はいろいろなプレハブ住宅メーカーの製品で、埋め尽くされているではありませんか。いたるところで見受ける、この国の少し恵まれた人々の住環境であります。この住環境を目の当たりにし、もっと良い生活環境ができるのにと思いつつも、今日まで何もなし得なかった私自身に対し、ある腹立たしさを感じるのであります。日本中がいろいろなプレハブ住宅メーカーの製品で埋め尽くされていくのでしょうか。建築家は、一体何をしてきたのでしょうか。大正から昭和の初めにこの国に建てられた、たくさんの街の長屋や郊外住宅のほうが、遥かに文化的に良質だと、私は感じています。先日、総理大臣官邸が完成しました。技術的には上手にできているでしょう。これからこの国の政治問題が世界に紹介される時、必ず現れる、国を代表する建築映像になるのでしょう。だからどうだというわけではないのですが、あまりにも、建築としてくだらなさすぎるのではないでしょうか。最近、文部科学省は創造的な人材の育成のために、知的文化人たちを集めて、新しい教育のプログラムを作成して国中に公布したようですが、国そのものが、このように、文化的意味も、創造的意味をももたない総理大臣官邸を建設してほくそ笑んでいるようでは、推して知るべしであります。どなたもあの建造物がつまらないものであることを感じておられないということに対して驚いてしまいます。今日私たちは、たくさんの公共建築物を訪れます。私はその中に何の意味もない無駄な空間や、無駄な表現が多くあるのを知っています。その意味のない膨大な容積を膨大なエネルギーを使って、冷やしたり、温めたりしているのです。大衆はあまり気にしていないようですが、このエネルギー代はすべて私たちの税金でまかなわれています。また、意味のない表現に費やされた建築費もそうです。こんなことが起きるのは、担当建築家に能力がないことと、公共建築物がプログラムされる時に役人が本当の内容に無関心であることからきています。そして知的文化人と役人たちは、地球温暖化の問題をこんな建物の中で論議しています。なぜか書き出すと、悲観的なことばかりが頭の中に浮かんできて困ったことです。不況になれば少しは考え方も変わって、新しい時代の切り口でも見つかるのかと期待をしてみるのですが、どうもそのような兆候は感じられません。しかしちょっと待ってください。たしか、画家のギュスターブ・モローはロマン派の絵画が終わりに近付いたころ、たくさんの評論家が、絵画は終わってしまったと囃し立てる中で、モローは、これから絵画が始まるのにだれも分かっていないと話したそうです。モローの弟子からやがてルオーが生まれ、マチスが生まれ、マルケが生まれました。建築界のどこかに、このような<水脈>が流れているのでしょうか?